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自国より国力が高い国の征服について

自主研究レポートNo.2 / 2022年8月1日

京浜総研合同会社 主任研究員 三岩幸夫

1.はじめに

現在、ロシアのウクライナへの本格侵攻が話題となっているが、大国による征服は、征服された国家の消滅、最悪の場合はジェノサイドに帰結するケースがあるため、ウクライナは民族消滅の危機から必死の抵抗を繰り広げている。
大国による他国征服であるが、本土と強い利害が錯綜した隣接地域を征服した場合、国家の消滅のみならず民族の消滅するケースが多く、そうでなく本土と隣接していない場合、属国化や間接支配などで済むケースが多い。
近代によるヨーロッパ諸国による植民地支配であるが、ロシアのように隣接した地域を征服した場合、征服された側の民族は消滅または少数民族となり征服された側の民族が多数派となり本土そのものが拡張されていくが、イギリスやフランスなど遠隔地を征服した場合、征服された側の民族は維持されることが多いため、結局は植民地の独立に帰結し、本土そのものは拡張されていない。
隣接地、または、隣接地に準ずる地域を征服した場合、征服した国が征服された国を併呑することが一般的の常識となっている。
しかしながら、自国より国力が高い国を征服した場合、征服側の地域が征服された側の植民地になることがある。
基本的に自国より国力が低い国からの侵攻は失敗するが、以下のケースでは成功することがが起こりうる。
1つは、征服する側の国力が征服される側より低い場合であっても、国家のリソースをより多くを軍事力に割り当てることにより、征服する側の軍事力を上回る場合である。
もう1つは、征服される側の国力が潜在的に高くとも、テクノロジーの低さ、内紛や統治の失敗、国内リソースの未活用や未開拓により、現状で発揮しうる国力が劣る場合である。
更に国力に関係なく、君主や支配階級の乗っ取り場合もある。
このような場合において、隣接地やそれに準ずる場合、逆に征服した側が植民地化されることがある。
実際にそのようなことは世界史のなかでの事例があり、決して稀な現象ではない。
日本誕生の揺籃期において、朝廷における列島内の統制力欠如により統治もままならない状態もかかわらず、海を隔てた先進地である朝鮮半島南部を支配していたという摩訶不思議な事実があった。
そのような理解し難い事実を示唆する地政学的な史実を示していく。

2.北方遊牧民による中国への侵略

中国は現在でこそアメリカに優位を許しているがそれでもGDP世界第2位であり、産業革命以前は有史以来、世界中でトップレベルの国力を誇っていたのみならず、文化・テクノロジー面でも先進的であった。
世界4大文明のうち、黄河文明のみが現存し、その他は現存せずに消滅した。
黄河文明誕生期の甲骨上文字や青銅器金文の記述は、なかには難読文もあるが、字体さえ補正すれば我々日本人でも完全でなくとも何が記述されているかが見当がつくことから、実は我々日本人も黄河文明の民であろう。
インダス文明は早々に完全に消滅し一切の痕跡も残さず後世への影響もないことから、完全に謎の文明であるといえよう。
メソポタミア文明は、紀元前3500年頃からシュメール文明が成立し、紀元前500年頃にペルシャ帝国の征服で終焉を迎えたが、ヘレニズム文明がそれを受け継ぎ、さらに現在のヨーロッパ文明とイスラム文明に対して影響力を残した。
紀元前3500年頃に誕生したシュメール文字は、シュメール文明滅亡後も権威ある文字として約3500年にわたり使用され、最後の使用が紀元0年近辺であり、それをもってメソポタミア文明の終焉であり、現在、シュメール文字を常用している人はいない。
エジプト文明は紀元0年頃のローマ帝国の征服により王国自体の滅亡で終焉したが、エジプト文明自体は急に消滅せず、ローマ帝国治下でのギリシャ・ローマ化、キリスト教化により徐々に薄まっていき、8世紀のイスラム化により完全にエジプト文明とエジプト人が消滅に至った。
現在のエジプトはアラブ人がアラブ語とアラビア文字を常用しているが、ごく少数のキリスト教徒が口語エジプト語であるコプト語をわずかに礼拝時のみ用いているため、わずかに残渣が残存している。
このように中国は、現存する文明としては一番古く伝統があり、世界史のなかで圧倒的影響力を有し続けてきた。
ただ、このように最強を誇る中国であるが、始皇帝による統一以来現在に至るまで、常に北方が弱点であり続けており、秦・漢時代の匈奴から、現在のロシアに至るまで、常に軍事力による脅威を受け続けてきている。
このことは中国人のトラウマとなっており、中国の方に「敗れるという意味を知っているか?」、「北に敗れるということだ、敗北というだろう?日本人は意味も理解せず言葉を使っているようだが、これは中国にとって北に敗れるということだ」と言われたことがあり、北方は鬼門でありもはや呪われた方角といえよう。
秦・漢時代は相次ぐ匈奴との軍事的敗北により、その前半は匈奴に隷属を強いられ、その後の変遷はありながらも五胡十六国時代の前半に華北を征服されるが、やがて匈奴は漢民族に吸収同化をされていった。
次の脅威は鮮卑族(現在のシビル族?)が南北朝時代に華北全域を征服し、やがては、鮮卑族が隋や唐を建国して、北方遊牧民が中国全土を支配することとなったのであったが、匈奴同様、やがて鮮卑族は漢民族に吸収同化をされていった。
正確にいうと三国時代と西普時代の華北における漢民族自滅による荒廃で、それを埋めるように進出してきた鮮卑族などの北方民族が試行錯誤で漢字を習得したということであり、オリジナルの漢民族自体は絶滅し、北方民族が漢民族の文明を継承したといえよう。
次の宋自体も生物学的には北方遊牧民族が建てた国ではあるが、漢民族の文明を完全に継承した後のため、自己認識ではむしろ漢民族という意識が強烈であるのであった。
宋時代の北方民族である契丹は、これまでの反省を踏まえて、華北の一部を征服した段階で抑制し、根拠地も長城以北に置いて独自文化を維持しながら漢民族に同化をされずに中国の支配に臨んだ最初の国家であり、現在のロシアのやり方に近い。
女真族は、その圧倒的な軍事力で契丹を征服したのみならず、宋をも滅ぼし、一旦は中国全土を征服したが、その時点では中国を支配するスキルに欠けたため、漢民族の傀儡政権を建てて間接支配しようとした。
その後、傀儡政権は女真族を裏切って宋を再興したが、いくつかの変遷を経て、女真族は華北に深入りして金を樹立し、華南のみ宋に残ったが、案の定、華北の女真族は漢民族に吸収同化をされていった。
やがて西はフランスや北アフリカにまで、東は日本、南はジャワにまで侵攻をするモンゴルが金や宋を滅ぼして中国全土を支配し、元を建国した。
モンゴルも中国を征服したため、結果的には中国の一部に組み込まれ、現在は内モンゴル自治区として名前ばかりの自治が与えられるが、ウィグル同様に漢族への同化に抵抗しつつも中国共産党による民族浄化による消滅が現在進行中である。
ただし、外モンゴルはソ連の傀儡国家であったため、中国の触手から免れ、モンゴルの北半分は独立国家として現在に至っている。
最後に中国を征服した満州族は、征服した漢民族に対して辮髪などの満州族の服装を強制し、服装だけは満州族になったが、前述の金と同様にすぐに漢民族に同化され、現在では満州は中国東北部の内地となり、征服した側の満州が中国に吸収されることになった。
前述のとおり、中国にとって北方遊牧民族の脅威が去った後でも新たに北方にロシアという軍事的脅威が現在進行中である。

3.スコットランド

現在、スコットランドはイギリスの領土であるが、1999年にはスコットランド議会が再開され、2014年の独立を問う国民投票では55%の否決であったが、イギリスのEU脱退の影響でスコットランドのEU再加盟の件、北海油田の利権の件などでなおもスコットランド独立運動はくすぶっている。
スコットランドはイングランドと比較して国力は劣っており、同じ島内に存在することからイングランドの侵攻にあっていたが、16世紀までなんとか独立を保っていた。
1603年、スコットランド王がイングランド王になったのであるが、イングランド側の圧倒的な国力により、スコットランドの従属化が徐々に進行していった。
それでも王室がスコットランド王である間はスコットランドの人々は問題としなかったが、そうでなくなると独立をしようとした。
しかし、国力で圧倒するイングランドに軍事力で制圧され、とうとう、18世紀には連合王国の成立により、スコットランドの独立は完全に失われ、イギリスの領土に組み込まれるのであった。
現在では、一定の自治権は獲得したものの、スコットランド独立は達成されておらず、独立運動は現在進行中である。

4.ネーデルラント

ネーデルラントは、中世初期はフランス王国の直轄下であったが、やがて、フランス王室の分家がフランスの親藩としてブルゴーニュ公国が統治するようになった。
最初は親藩として主家のフランス王国に従属していたが、やがては、主家と親藩が内紛・抗争するようになり、フランス王国との関係が険悪化した。
ブルゴーニュ公国はフランス王室の親藩ではあったが、神聖ローマ帝国版図内にあったため、シャルル公はブルゴーニュ公国の王国への昇格及び神聖ローマ皇帝位への野心から、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世の嫡男マクシミリアンとひとり娘マリーを婚約させた。
その後、シャルル公は、ロートリンゲン地方、スイス北西部へ侵攻をするがナンシー近郊で戦死し、ブルゴーニュ公国における男系は断絶した。
シャルル公の娘であるマリーが公位を継承するが、主家のフランスが黙ってはおらず、ネーデルラントに侵攻するのであった。
マリー公の夫であるハプスブルク家のマクシミリアンが加勢をして対抗していたが、マリー公の落馬死により、全くの部外者であるマクシミリアンが君主になると、今度は内部で反乱が相次いで収拾がつかなくなったため、マリー公の息子であるフィリップ公が継承することでようやく、ブルゴーニュ公国の混乱を収めることができた。
これまで、オーストリアを中心として統治してきたハプスブルク家であるが、フィリップ公はブリュッセルをハプスブルク家の中心に移すことになる。
現在、ベルギーとオーストリアは同じような小国であるが、当時のブルゴーニュ公国はフランス東部も版図に含まれたのみならず、ヨーロッパで一番の経済大国であったが、当時のオーストリアはヨーロッパ辺境の後進国であり、国力はブルゴーニュより圧倒的に低かった。
従って、オーストリアが本拠であったハプスブルク家がブルゴーニュを獲得することによって、逆にオーストリアはブルゴーニュに従属するようになった。
フィリップ公は敵対するフランスに対抗するため、カスティーリャ王国となる王室と相互に婚姻関係を結んだ。
その後、疫病によりカスティーリャ王室の後継者が亡くなり、フィリップ公が後継者となったため、フィリップ公はスペイン国王になるためにスペインに上陸したがすぐに急死をした。
そのため、カスティーリャ女王の夫であり、フィリップ公の義父となるアラゴン国王が、両国の統治を行うこととなった。
やがて、アラゴン国王が亡くなると、フィリップ公の息子であるシャルル公がカスティーリャとアラゴンを統合したスペイン国王にカルロス1世として即位することになった。
スペイン国王即位後、ほどなくシャルル公の祖父である神聖ローマ皇帝であるマクシミリアン1世が亡くなると、後継者を決めるための皇帝選挙が実施された。
シャルル公はスペイン国王カルロス1世として、フランス国王と激烈な選挙戦を繰り広げ、スペイン王国の財力を膨大に投じて、金権選挙により接戦の末に当選し、神聖ローマ皇帝カール5世として即位した。
スペイン側としては縁もゆかりもなくフランス語を話す遠隔地の君主が、これもまた更に遠いドイツの神聖ローマ帝国の選挙で自分たちの血税や国庫金をつぎ込むことに及んで、スペイン各地で国王に対しての反乱が相次いだ。
それ以降、カルロス1世はスペイン語を習得し、スペイン国王としてスペインのために統治するように改心したため、反乱も収束していった。
ただし、ブルゴーニュ公でもあり、神聖ローマ皇帝でもあったため、それぞれに対して手抜きすることなく全力で政務に励んだため、きめ細やかに広大な領地内を渡り歩いた。
このことから放浪する君主と呼ばれ、あまりに過酷な政務により過労が限界に達した。
そのため、オーストリアを含む神聖ローマ帝国は弟に継承させ、ブルゴーニュ公国とスペイン王国は息子のフェリべ2世に継承させることによって、統治の負担を軽減させた。
フェリべ2世は放浪した父とは異なり、マドリードにとどまって、各地へは副王や総督を派遣して統治を行った。
そのため、ブルゴーニュ公国であるネーデルラントはスペインに従属する領地となった。
そうなると今度は、ネーデルラントがスペイン領であることを嫌って、ネーデルラント各地でスペイン国王に対する反乱が発生するようになった。
また、スペイン国王はカトリック守護者でもあったため、ネーデルラント北部の新教徒を激しく弾圧をするようになった。
これは火に油を注ぐ結果となり、ネーデルラント各地で反乱と弾圧が相互にエスカレーションするとともに、イギリスが反乱を支援したため、収拾がつかなくなってしまった。
これがオランダ独立戦争である。
地域の土豪であった新教徒のオラニエ公が反乱を主導したが、新教徒の土豪であったオラニエ公に反感をもち、かつ、伝統を重んじるカトリック勢力はスペイン国王を支持することになり、紛争が泥沼化するのであった。
結局、両者の勢力が伯仲して収拾がつかないため、ネーデルラント北部はオランダとしてスペインから独立し、南部はベルギーとしてスペイン領に留まるかたちで休戦に至った。

5.まとめ

このように、隣接地、または、隣接地に準ずる地域を自国より国力が高い国の征服した場合、征服側の地域が征服された側の植民地化なることは珍しくもなく、世界史に多数の事例がある。
日本誕生の揺籃期における魏志倭人伝の朝鮮半島南部は倭の領域であるという記述、中国南朝による任那など朝鮮半島南部支配権の認定、朝鮮最古の史書である三国史記の新羅初期の記述で何度も侵攻したきた倭を撃退した記述、半島北部の高句麗による倭の侵攻に対して撃退したという好太王碑の当時の記述、日本書紀による朝鮮南部任那の領有の記述など、これら多様な客観的証拠により、倭国が朝鮮半島南部を領有したことは事実であろう。
中国史書と考古学成果から朝鮮半島南部は、テクノロジーの高さにより軍事力の中核である鉄を独占しているだけでなく、国内リソースも開拓が進んでおり活用もできていた。
一方、日本は、朝鮮半島南部に比較して潜在的国力は高くとも、7世紀以降まで鉄を国産化できず、律令国家以前では統治体制の不備による内紛の多発、テクノロジーの低さによる国内リソースの未活用や未開拓であるため、とても海外へ進出できる状況ではなかった。
古代日本は、史書や考古学成果の圧倒的不足により、永遠に事実を特定することはできないが、我々日本人としてのアイデンティティの原点というべき日本誕生の揺籃期の過程を示唆する事例が世界史において複数みられる。
日本誕生の揺籃期に関する出来事を古代日本史、古代朝鮮史の視点のみに留まると何ら新しい発見もないのであり、まったく無関係の地域や時期の出来事に着目することにより、全く新しい気づきができると思われる。