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ヨーロッパの盟主について

自主研究レポートNo.1 / 2022年6月1日

京浜総研合同会社 主任研究員 三岩幸夫

1.はじめに

現在、ロシアのウクライナへの本格侵攻が話題となっているが、実は2014年以来、クリミアやドンバスなど南部や西部に侵攻を行っている。
ロシアの侵攻はウクライナのみならず、ジョージアの南オセチア地方やアゼルバイジャンのナゴルノカラバフ地方への侵攻を行っており、ロシア軍が「力による現状維持変更」による不法占拠が現在進行中である。
ちなみにヨーロッパではないが、日本も北方4島もロシア軍による「力による現状維持変更」による不法占拠が現在進行中であり、実はウクライナ、ジョージア、アゼルバイジャンと同じ状況であり、他人事ではない。
一方、ナチスドイツは第二次世界大戦時にヨーロッパの大部分に対して軍事侵攻を実施し、一旦はヨーロッパの大部分を占領することができたが、最終的には敗戦により国家が壊滅、消滅に至った。
現在、ドイツは軍事力を引っ込めてフランスを取り込んでソフトパワーにより実質的なEUの盟主となっている。
一見、ロシアはヨーロッパ内一番の軍事力により東欧世界の盟主たらんとし、一方、ドイツはヨーロッパ内一番の経済力により西欧世界の盟主たらんとしているように思える。
この事自体は誤りではないが、実際には、伝統による権威と現在の実力の絶妙なミックスにより盟主が決まるのであって、実は2000年来の長い伝統と現在の実力に裏打ちされたものであるといえよう。
ロシアはこれら伝統と実力による盟主という強い自負のため、ウクライナへの本格侵攻をやめることが不可能であることを認識する必要がある。
ロシア以外の国々は、損得勘定度外視で軍や経済、自国民の犠牲を伴ってまで「力による現状維持変更」を無理をしてまでしようとしないことが多い。
ソ連が創った国である中国や北朝鮮は基本的にロシアを模範としており自国民の犠牲に対しては無関心であるが、ロシアとは違い損得勘定に対しては非常に敏感であり、中国は何よりも経済に対して、北朝鮮は何よりも軍に対して、最大限の気遣いをしている
しかし、ロシアは、軍や経済が破滅しようが、自国民が総玉砕しようが、そのようなことにお構いなく、ロシア国家が解体・消滅するまで、ウクライナへの本格侵攻をやめることはできないのである。
1945年のドイツも軍や経済の破滅、自国民の玉砕を経てようやく周辺諸国への侵攻を諦めてドイツ国家は解体・消滅に至った。
なぜ、ドイツとロシアがこれら伝統と実力による盟主という地位を確立していったかを述べていく。

2.古代ローマ帝国

紀元前8世紀頃より成立した都市国家ローマは、共和制を確立してから徐々に周辺地域を征服していき、紀元前50年頃には地中海世界の覇権を確立した。
我々は古代ローマは「帝国」と呼ぶが、当事者は自分自身をあくまてローマ共和国(SPQR:Senatus Populus Que Romanus)として共和制と認識している。
実態としても世襲を前提とせず、現在の民主主義が成熟していない大多数の共和制国家による独裁体制に近いと思われる。
古代ローマ帝国は、やがて、紀元1世紀の末から2世紀にかけて即位した5賢帝の時代にローマ帝国は最盛期を迎え、ヨーロッパの文明化された地域における唯一の国家の地位を確立するに至った。
現在のヨーロッパ諸国は古代ローマの継承国家としての自覚を有しており、逆に古代ローマの継承こそがヨーロッパであるといえよう。
ただ、トルコに限っては、古代ローマ帝国の継承しながらもイスラム世界の盟主であるオスマン帝国を継承していることから、大部分がアジア、一部がヨーロッパという複雑な状況である。
従って、現在のヨーロッパ諸国にとってローマ帝国は絶対的な存在であるといえよう。
4世紀以降におけるローマ帝国の衰退と内紛による弱体化により、ローマ帝国は東西に分裂し、ゲルマン人の侵入により、5世紀に至ってはローマ帝国は事実上崩壊に至った。
476〜480年に至っては名目上の存在であった西ローマ帝国も完全に消滅に至った。
ただし、コンスタンティノポリスを首都としたローマ帝国の東半分は、ゲルマン人が侵入しなかったアナトリアやシリア、エジプトを擁していたため、ゲルマン人の侵入を巧みに退けて徐々に古代ローマ帝国を復興していったのみならず、やがては、ゲルマン諸王国に対して反転攻勢をして、再度、地中海世界の覇権を再確立するに至った。
一般的に476〜480年に古代ローマ帝国が滅亡したとされ、ゲルマン諸王国がローマ世界を蹂躙したとされるが、実際には古代ローマ帝国の行政システムを破壊することなくそのまま再利用し、ローマ皇帝の覇権も認めている。
従って、西ローマ帝国が滅亡以降も西方世界においても古代ローマ帝国はそのまま継続し、トップにはコンスタンティノポリスのローマ皇帝を頂き、その配下のゲルマン人諸国王がローマ属州総督として実権を握り、ローマ帝国の行政システムを維持して統治を継続していたのである。
一方、ローマ皇帝の直轄化にあった東方世界では、シリアやエジプトの穀倉地帯を保有することにより、それを失う7世紀末に至るまで古代ローマ帝国の象徴であった「パンとサーカス」が長らく健在であった。
一般的に3世紀以降に崩壊したとされていた古代ローマ帝国であるが、その実態としても、イスラム教徒が地中海世界へ侵攻する7世紀末まで存続したのであって、そう簡単に崩壊していないのである。
さすがにイスラム教徒侵攻後の8世紀以降に至っては、古代ローマ帝国のシステムをそのまま維持できなくなり、東西それぞれの地域でローマ帝国を再編成し、近世に至るまでローマ帝国を延命存続させることとなった。

3.西ローマ帝国(神聖ローマ帝国)

476〜480年の西ローマ帝国が滅亡以降もそのまま古代ローマ帝国が実態として存続したことは前述のとおりである。
西方世界では当座の間、ゲルマン人国王がローマ属州総督として、東方のコンスタンティノポリスの皇帝が間接統治するスタイルが継続していった。
やがて、6世紀に入って古代ローマ帝国直轄の東方世界では、ローマ皇帝ユスティティアヌスが間接統治であった西方世界のゲルマン人諸王国へ侵攻して直轄下に置いた。
さずがにフランク王国や西ゴート王国まで直轄下に置くことはできなかったが、それでも、北アフリカ全域、イベリア半島西岸、イタリア半島全域を直轄下に置き、古代ローマ帝国が再び地中海世界全域の覇権を握った。
しかしながら、国力を無視した侵攻(まるで現在のロシアのよう)によって、帝国全体、特に、西方世界は疲弊することによって、皮肉なことに正統なる直系のローマ皇帝が、古代ローマ帝国のシステムを弱体化させていき、7世紀末にイスラム教徒が事実上崩壊しつつあったこのシステムにとどめを刺すことによって、古代ローマ帝国のシステムが完全消滅するに至った。
古代ローマ帝国の消失により窮地に陥ったのが当時のローマ司教であった。
まず、ローマ司教はコンスタンティノポリスのローマ皇帝に保護を求めたが、ランゴバルト人やイスラム教徒の侵攻で、ローマ皇帝そのものが消滅の窮地に至ったため、やがて、ローマの保護どころではなくなり、ローマ司教は、ローマ皇帝に保護を求められず、完全無防備の窮地に陥った。
また、地中海東方地域では、偶像崇拝禁止の一神教が徹底している地域のため、一時期、ローマ皇帝はキリスト教の偶像崇拝を禁止した。
しかし、多神教がベースの西欧世界では、偶像なしではキリスト教を布教できないため、ローマ司教は、偶像崇拝を禁止するローマ皇帝と袂を分かざる得なかった。
この問題は非常に根が深く、現在でもイスラム世界では徹底した偶像崇拝禁止であり、東欧のキリスト教正教会では建前として偶像崇拝禁止であるが絵画が偶像でないという解釈でイコンを崇拝し、西欧のカトリック・プロテスタントは聖像崇拝であるため、同じ神と聖典を共有するにも関わらず、お互いに相容れることが難しい。
そのため、ローマ司教は、ローマ帝国に見切りをつけて、北方のゲルマン人諸国王に保護を求めるに至った。
その頃、西欧で最大の勢力を誇るメロウィング朝フランク王国では、王室であるメロウィング家が徐々に実力を失ない、門閥貴族が宮宰として実権を握るに至った。
やがて、門閥貴族のなかでカロリング家が台頭していき、フランク王国の事実上の支配者としての地位を確立するに至った。
よく、日本だけが君主の簒奪にあわずに建国以来連綿と継続し、外国は王朝交代が繰り広げられていると言われる。
結果的に事実ではあるが、日本だけ特別であるわけがなく、西欧も君主の簒奪が日本と同様に困難であるといえよう。
いくら王室であるメロウィング家の実力がなく、家臣であるカロリング家が王国の事実上の支配者であろうとも、日本の皇室同様に君主の簒奪は容易でなく、君主をはるかに凌駕する権威なしには、簒奪は不可能であった。
その頃、古代ローマ帝国において正式に国教として認定されたキリスト教の西方における唯一の司教座であるローマ司教が、古代ローマ帝国が消失して以降、西方において古代ローマ唯一の後継者として、その権威を確立したのであった。
そこで、前述のとおり、権威はあるが実力がなく窮地に陥っていたローマ司教と実力はあるが権威に欠けて簒奪できないでいるカロリング家の利害が一致し、ローマ司教がカロリング家に権威を与えて、最終的には、ローマ司教がローマ教皇として確立し現在にまで至り、カロリング家はフランク国王の地位を確立し西ローマ皇帝となり、西ローマ帝国が中身を変えて復活再編に至った。
前述のとおり、ローマ皇帝は共和制における元首であり世襲を前提としないため、西方では、皇帝の家系を頻繁に変えながら、19世紀初頭に至るまで復活再編された西ローマ帝国が存続をしていった。
これが、ドイツと北イタリアを中心とした神聖ローマ帝国と言われるものである。
この復活再編された西ローマ帝国は、古代ローマ帝国を権威面で継承するローマ教皇が復活再編をしたのみならず、追認ではあるが、古代ローマ帝国の直系であるコンスタンティノポリスのローマ皇帝が正式に西ローマ皇帝として認定している。
神聖ローマ帝国は、古代ローマ帝国の直系でないが、決してまがい物でなく、アウグストゥス以来連綿と続く直系のローマ帝国の皇帝が正式に認定したものであることを見逃してはいけない。
そのため、ドイツの君主だけがローマ王であり、ローマ教皇による戴冠を経て、晴れてローマ皇帝となれる状態が、古代ローマ崩壊以降、フランス革命に至るまで、長い間継続していき、ドイツだけが西欧で特別な位置づけがされるに至ったのであった。
ドイツにおける神聖ローマ帝国は、西欧の他の民族国家と異なり、単にドイツ人の国家だけではなく、西欧全体の利害が錯綜し、西欧全体に影響を及ぼす「場」となり、そのことが、かえってドイツとイタリアにおいて統一国家誕生が妨げられることとなった。
実際に神聖ローマ帝国はその後期において、帝国内諸侯として、イギリス国王、デンマーク国王、ボヘミア(現チェコ)国王などを抱えることになった。
前述のとおりローマ皇帝は世襲を前提としないため、神聖ローマ帝国においてもカール4世の金印勅書により選挙で皇帝を選出することが確立されるに至った。
例えば、16世紀初頭では、神聖ローマ皇帝として代表的なハプスブルク家のカール5世は皇帝選挙において、スペイン国王、フランス国王、イングランド国王による3者の選挙で選出された。
事実上、ドイツの君主位を巡ってスペイン国王とフランス国王が激しい選挙戦を繰り広げた結果、スペイン国王側の露骨な金権選挙により、かろうじてスペイン国王カルロス1世が当選し、神聖ローマ皇帝カール5世として戴冠に至った。
19世紀初頭の神聖ローマ帝国消滅後は、ナポレオンがドイツ諸侯の支持のもとフランス皇帝となったが、普仏戦争によるプロイセンの勝利により、フランス皇帝ナポレオン3世を退陣に追い込み、プロイセン国王がドイツ皇帝となり、ドイツ帝国(第2帝国)が成立した。
その後、第1次世界大戦の敗戦により、ドイツは皇帝不在のドイツ帝国という実態のワイマール共和政に移行はするが、やがてはナチスのヒトラーが実権を握り、総統として第3帝国を確立し、ヨーロッパの盟主としての自負から、ヨーロッパ全域に侵攻し、最終的にはドイツ国家崩壊に至たるのであった。
現在のドイツは、第2次世界大戦後の完全なドイツ国家消滅後、改めて、アメリカ、イギリス、フランスによって設立された傀儡国家が主権回復後に西ドイツとして成立し、20世紀末にソ連の傀儡国家であった東ドイツをソ連のゴルバチョフ書記長の承認のもと、西ドイツが東ドイツを吸収合併し成立したものである。
かつての復活再編された西ローマ帝国も東ローマ皇帝の承認を経て成立したのであるが、現在のドイツも東欧の盟主たるソ連の承認を経て成立したことは、興味深い事実であろう。
このようにドイツは単にヨーロッパで一番の経済力という実力のみならず、約2000年に渡る伝統を誇ることから、EUにおいてはフランスを副盟主として取り込み、EUの盟主として確立するに至った。

4.東ローマ帝国(ロシア帝国)

前述のとおり、東方のコンスタンティノポリスを首都とする古代ローマ帝国は7世紀末までそのまま継続をするが、ランゴバルト族蹂躙によりイタリアの支配権喪失とイスラム教徒による侵攻で北アフリカやシリアを失うのみならず、イスラム教徒による首都コンスタンティノポリス攻略により、東方においても古代ローマ帝国のシステムが完全に消失するに至った。
かろうじて首都攻防戦においてイスラム教徒を撃退したあと、残存した南イタリア、バルカン半島南部、アナトリアにおいて、正統なるローマ帝国を建前とするギリシャ国家が復活再編された。
我々はこのローマ帝国と称するギリシャ国家のことをビザンツ帝国と呼ぶが、当事者はあくまでも正統なローマ帝国であると認識している。
前述のようにイスラム世界と西欧世界に挟まれていることから、信仰面では、建前では偶像崇拝禁止しつつも運用面でイコン崇拝を容認するという折衷的なものに帰着し、また、典礼面でもカトリックとは異質の東方のキリスト教正教会の独自の典礼を確立したことから、西欧との再統合が不可能になるに至った。
東ローマ帝国は、イタリア南端を除く西ヨーロッパ全域、北アフリカ、シリアを喪失するに至って、未開拓であるスラブ人を中核とする東ヨーロッパ全域に進出しようと試みるが、実態としてギリシャの地方国家に成り下がった東ローマ帝国は、そのような国力も残されていないため、東ヨーロッパ全域に対して正教会の布教のみに専念することにした。
西欧に隣接するポーランド、チェコ、クロアチアは既にカトリックが浸透していたが、それ以外の東欧では、前述の戦略が功を奏して、東方の正教会世界が確立することに成功し、現在へと至っている。
東ローマ帝国はギリシャ国家へと再編された後、10世紀には再び国力を回復し、バシレイオス2世の治世では、南イタリア、バルカン半島全域、クリミアを含む黒海北岸、コーカサス地方、シリア北部まで版図を拡大し、東地中海全域の制海権を手中に収めるに至った。
しかし、その後は坂から転落するように国力が低下し、12世紀に至っては、ローマ帝国としてのアイデンティティあったイタリアの版図を喪失し、13世紀初頭には十字軍に占領され、東ローマ帝国は一旦消滅してしまった。
14世紀に入って東ローマ帝国は再建されるものの首都コンスタンティノポリス周辺を支配する小国に成り下がったばかりか、古代ローマの原点である都市国家にまで縮小し、15世紀中盤にはとうとうオスマントルコにより征服され、直系のローマ帝国は完全に消滅するに至った。
オスマントルコは東ヨーロッパ南域、アラブ地域、北アフリカ全域を版図に収め、かつてのローマ帝国のように地中海全域の覇権を握り、東ローマ帝国をも継承するに至った。
ただ、オスマントルコはイスラム教国家であるだけでなく、イスラム世界で最高位のカリフになり、イスラム世界の盟主であることから、キリスト教は容認するのみであり、東ローマ帝国を継承するにもかかわらず、東欧の盟主になろうとはしなかった。
そのため、東ローマ帝国滅亡後は、東欧の正教会世界のなかで絶大な力を有するロシア帝国が東ローマ帝国の継承者となり、東ローマ帝国内における唯一の司教座であるコンスタンティノポリス司教座が、ロシア帝国に頼ることとなり、また、ロシア皇帝のツァーリという称号もヨーロッパ諸国が承認するに至った。
ツァーリはカエサルのロシア語読みであり、ロシア帝国が自他ともに東ローマ帝国の継承者であることが確立し、東欧の盟主たる伝統を引き継ぐこととなった。
20世紀初頭のロシア革命によりロシア帝国は滅亡しソ連が成立したが、第2次世界大戦の勝利により、東ヨーロッパ全域を直轄下の共和国(ウクライナ、バルト3国など)と傀儡国家(東ドイツ、ポーランドなど)として半世紀にわたる実効支配を確立し、20世紀末のソ連崩壊により傀儡国家や直轄下の国家を手放すこととなった。
21世紀に入ってプーチン政権下でロシアは経済力を回復させ、再び、ロシアを東欧の盟主たらんとして、ウクライナにおいての武力衝突を引き起こすにのみならず、ウクライナを支援するポーランドを恫喝したり、NATOに加盟しようとするフィンランドやスウェーデンを恫喝するなど、ヨーロッパ全体に対して睨みを聞かせている状態である。
現在でもなお、ロシアは、EU加盟国やNATO加盟国に対しても、極右や急進右派と呼ばれる反米、反EU勢力を裏から支援することにより影響力を駆使している。
その結果、ハンガリーに至っては親ロシア政権が樹立され、フランスの大統領選挙で惜敗したルペン候補はプーチンの大親友であり心酔している。
ドイツの前々首相であるシュレーダーもプーチンとは大親友であるだけでなく、ロシアのエネルギ企業の重役でもあり、いまだにロシアの代弁者である。
ドイツの前首相であるメルケルも一貫してプーチンとは蜜月関係であり、ドイツ現首相も同様で表面上は非友好国としてロシアへ制裁しつつも、裏ではプーチンと手を握っているため、ドイツ国会でもウクライナのゼレンスキー大統領の演説でも激しくドイツを非難するだけでなく、ドイツ大統領のウクライナ訪問も拒絶していることから、ゼレンスキーはプーチンと裏で結託するドイツに対しての激しい憤りがある。
このように、実は水面下ではヨーロッパの大陸諸国はロシアによって内部より侵食されつつあることを見逃してはいけない。

5.まとめ

このようにドイツは単にヨーロッパで一番の経済力という実力のみならず、約2000年に渡る伝統を受け継ぐことから、EUにおいてはフランスを副盟主として取り込み、EUの盟主として確立するに至っているのであった。
ドイツの国歌は1番から3番まであり、現在、1番と2番を封印し3番のみを歌っているが、特に1番は、北はデンマーク、西はオランダ、東はリトアニア、南はイタリアまで全てドイツのものと謳っており、2番は単に内容がないという理由だそうである。
これは軍事力を引っ込めてフランスと連携しつつソフトパワーによりEUの盟主になったドイツの現状を象徴するものであろう。
また、ロシアも同様ににヨーロッパで一番の軍事力という実力のみならず、約2000年に渡る伝統を受け継ぐことから、東欧の盟主として確立するに至っているのであった。
特にソ連は冷戦期では約半世紀にわたってヨーロッパの東半分を実効支配した実績もあり、現在のロシアは東ローマ帝国を継承する盟主として強い自負がある。
21世紀に入ってプーチンはソ連の国歌を復活させるが、ロシアの強さと偉大さを謳った部分は残しつつも、共産主義イデオロギーの部分を除去し、かつての輝かしい伝統のロシア帝国を讃えるものに差し替えたのあった。
このことからも、プーチンはソ連の実力と伝統を受け継ぐロシア帝国を意識しており、単にソ連をそのまま復活させていないことを見逃してはいけない。
そのため、ロシアにとってウクライナは外国でなく、かつてのローマ帝国内で反乱を起こす部族のようにみなしているため、帝国内での反乱を鎮圧することがローマ皇帝にとって神聖な義務であるごとく、ウクライナを完全制圧するまで、引くに引けない状況になっている。
もっとも、再編された西ローマ帝国の後半期に皇帝を輩出したオーストリアと東ローマ帝国を直接受け継いだトルコがむしろローマ帝国の直系の後継者にふさわしいが、現状では実力を欠くため、過去の栄光のみでは盟主になることはできない。